批判的思考はいらない

私は実は、批判的思考という概念はなくてもいいと思っています。たとえば、次の例を見てください(私が自作した架空の文章です)。

テレビ番組の中には、怪しげなものもあります。そういうものを鵜呑みにせず、的確に情報を取捨選択できるためには、批判的思考が必要です。批判的思考とは、何を信じ、何を行うかの決定に焦点を当てた、合理的で反省的な思考のことです(Ennis, 1985)。では批判的思考について、具体的に学んでいきましょう。……

批判的思考を紹介するときによく見られるような文章だと思うのですが、ここには「批判的思考」という語も、その定義も、その解説もまったく不要なはずです。なぜなら、ここで問題にしようとしていることは、「怪しげなテレビ番組の情報を鵜呑みにしないためにはどうしたらよいのか」ということであり、それ以上でもそれ以下でもないはずだからです。だからこの文章は、次のようにすれば事足りるはずです。

テレビ番組の中には、怪しげなものもあります。そういうものを鵜呑みにせず、的確に情報を取捨選択できるためには、批判的思考が必要です。批判的思考とは、何を信じ、何を行うかの決定に焦点を当てた、合理的で反省的な思考のことです(Ennis, 1985)。では批判的思考どうしたら良いかについて、具体的に学んでいきましょう。……

すなわち、大事なのは「批判的思考」という語や概念そのものではなく、その語を用いてその人が何をしようとしているか、なのです。

上は批判的思考を学ぶ(あるいは教える)ときの例でしたが、同様に、批判的思考を研究しようと考えている人が、「では批判的思考とは(学術的には)何を指しているのか?」を考えたり調べたりする必要は、まったくありません(少なくとも最初の時点では)。

それよりもまずすべきことは、批判的思考という語で自分が扱おうとしているのは、どのような問題なのかを、批判的思考という語を用いずに、具体的に考えることでしょう(このことは、批判的思考の測定に関してもまったく同じで、それはhttp://d.hatena.ne.jp/michita/20060330/1172648174に書きました)。

では批判的思考という語はまったく無用・無意味かというと、それは違います。簡単にいえば、共通のラベルを使うことで、情報を共有することができます。すなわち、このラベルで検索することで、同じような目的の他の研究や教育を探し出すことができますし、自分の研究や教育を他人に共有してもらうことができます(もう一ついうならば、思考の中に含まれる「批判」という要素を重視することを宣言する、という意味もあると私は思っていますが、この点は重視している人とそうではない人がいると思います)。

ただし、批判的思考という語がついていればみな同じ内容を扱っているかというと、そんなことはありません。批判的思考という概念は、いくつかの分野で多少異なる形で使われていますし、また時代によっても内容(被覆範囲)が違うようです。人によっても、何を(どこまでを)批判的思考と考えるかかなり違います(個人の好みもかなり入っているようです)。

ですから批判的思考という語は、検索の手がかりにはなりますが、そこで扱われているものが何であるのか、自分が扱おうとしているものと同じなのか違うのかを知るためには、ちゃんとその内容を見て判断する必要があります。それを怠って、批判的思考という語がついていれば同じものだろう、と思考停止をしてしまったり、ある特定の批判的思考課題なりテストなり教育プログラムが、「批判的思考」なるものを丸ごと全部扱っていると考えてしまうことは、とても危険なことだと思います。

つまり、研究や教育の出発点にも、中核部分にも、批判的思考という語はいらないということです。基本的には、検索のための手がかり程度のものでしかない、と考えるのがよいと私は思います。

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なお、これに類するようなことしては、別の記事に、次のように書いています。

よろしければご参照ください。