疑うゲームと信じるゲーム

開かれた心に関しては、Clinchy(1989)*1の考えも参考になります(以下の記述は、Clinchy(1989)をベースにしつつ、私なりの考えも少し入れています)。

Clinchyは、開かれた心のない批判的思考のことを、「疑ってみるゲーム」(doubting game)と呼んでいます。それは、「誰かが自分の考えを述べたら、すぐに頭の中で反対の視点を考えてみる」ことです。ゲームとしての批判的思考という感じでしょうか。

そうではなく、「信じるゲーム」(believing game)を行うこともできます。他人の考えの何が悪いのかを探すのではなく、なぜそれが意味をなすのか、それはどのように正しいのかを探すことです。相手の考えを共感的に、開かれた心をもって理解しようとすることです。

しかしそれは、単に相手のことを受け入れるだけの受動的な思考ではなく、「問い」のある能動的な思考です。ただし「疑うゲーム」とは問い方が違います。「それは正しいのか?」と問うのではなく、たとえば「どういう意味なのだろうか?」と問うのです。「どんな証拠からそう言えるのか?」と問うではなく、「その人はどんな経験からそう考えるようになったのか?」と問うのです。それは、相手と向かい合って対立する姿勢で問うのではなく、相手と同じ視線で問題を見つめるという感じでしょうか。

Clinchyは、両方のモードで考える「統合アプローチ」が理想的と述べています。それは、「まず信じ、それから疑う」という考え方です。

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これを書きながらちょっと思ったのですが、まず信じるゲームをし、それから疑ってみるゲームをするというのは、視線や姿勢のあり方としては極端ではないか、という気がしました。前者は一緒に並んで視線を共有すること、後者は対立姿勢で向かい合うこと、とまったく反対になりますので。そうではなく、一緒に並んで同じ問題を見つめつつも、相手と同じ視線を取るだけではなく、相手とは少し異なる視線で問題を見つめたり、より建設的に相手の考えをバージョンアップさせたり、という行きかたもあるのではないかと思いました。

*1:Clinchy, B. (1989). On critical thinking and connected knowing. Liberal Education, 75, 14-19.