懐疑とバランス

沖縄タイムス2009年5月12日19面(文化欄)に,分子生物学者の福岡伸一氏が「「自己懐疑」を持とう−物知りとは違う「知的」」という文章を寄稿しておられました。実に批判的思考的な話で,興味深く読みました。一部を引用します。

知的であることの最低限のマナーは,自己懐疑を持てるかどうかということだと私は思う。自分が考えたこと,自分が思うこと,自分が信じていること,それはひょっとすると,全く,劇的に,根本的に間違っているのではないかと疑えること。そして自分がものを知っていると思うこと自体が,とんでもない勘違いであると気づけること。つまりそれはある種の謙虚さということである。

分かっているつもりになっていることが実は間違いや勘違いである可能性があるから科学的な探究を行う。そういうことなのだろうと思います。上記引用箇所の少し先には,「自ら疑うことができた懐疑心は,次に,外へと向けられるだろう」として,少し分子生物学的な話が書かれています。

しかし一方で,適切に懐疑することは難しいことだと私は思っています。何かを「確かなこと」として確定しないことには,足場が定まらず,探究自体が行えないからです。(探究には足場が必要,ということについては,野矢(2005)*1は「蝶番」「枠組み」と呼んでいます)単に疑えばいいというものではないのです。

こういったことから考えると,批判的思考全般についても,疑うことと疑わないことのバランスが大事なのでしょうね。

*1:野矢茂樹 (2005) 他者の声実在の声 産業図書