スポーツと「無」批判的思考

 スポーツと思考の続きのような話です。長谷川投手や為末選手の例からもわかるように,スポーツは「仮説検証」ときわめて相性がよさそうに見えます。というのは,試合の勝ち負けにせよ,選手の成績にせよ,結果が数字ではっきり出るからです。とすれば,「こうすればこういう結果が得られるだろう」という仮説をもって試合に臨み,実際にそのような結果が出たかどうかに基づいて,元の仮説を見直したり,洗練させたりできますし,うまくいったのであれば,信頼性の高い仮説として,重宝することができるはずです。

 もちろん,ある結果の背後には,気候,場所,個人的な出来事,相手,相性などさまざまな要因が影響してきますし,運や偶然もあるでしょうから,仮説をきれいに検証することは難しいかもしれません。それでも,何試合も重ねるうちに,ある程度のことは見えてくるのではないかという感じがします。

 しかし実際には,必ずしも仮説検証によってノウハウが蓄積されていくことは必ずしも多くはないようです。そのことは,ひとつにはスポーツ界に「ジンクス」などの迷信的な考えがはびこっていることからもいえます。

 この点については,ヴァイス(1999)*1によると,同じスポーツの中でも確実性が低い行為に迷信が集中しているそうで,そのことから迷信とは,コントロールできないものを支配しようとする試みだと考えられるます。といっても実際には,長谷川投手のように迷信に頼ることなく仮説検証を通して選手としての力量を高めていくことは可能なわけで,安易にジンクスなどの迷信行動に走ってしまうことは,きちんと考える機会も,選手として適切に力量を高める機会を失ってしまう可能性があります。

 その一方で,メジャーリーグの野球の試合を通して徹底的にデータを取って分析している事例があります(ルイス, 2004)*2。それによると,たとえば打者の能力の一番の尺度と思われている「打率」は,チームの総得点との関連が薄いそうです。むしろ,出塁率長打率のほうが総得点とはるかに密接なつながりを持っているのに,それらのデータはあまり重視されていません。打率以外にも,打点,盗塁,エラー,球速,被安打率などは,選手を評価する上で重視されているにもかかわらず,実は勝敗と関連の薄いデータなのだそうです*3

 なぜそのようなことが起きるのか。それは,関係者の多くが選手経験者であるだけに,自分の経験を過度に一般化し,データを都合のいいように読んでしまうからであり,メジャーリーグが閉鎖的な組織であるがゆえに,自分たちのやり方を客観的に評価しようとしないからのようです。

 ということで,いくらデータがあっても,それを元に仮説検証を行ったり,過去の勝敗について反省的に吟味することは,意外に難しいことだと言えそうです。

*1:ヴァイス, S, A. (1999) 人はなぜ迷信を信じるのか─思いこみの心理学 朝日新聞社

*2:ルイス, M. (2004) マネー・ボール─奇跡のチームをつくった男 ランダムハウス講談社

*3:このようなスポーツにおける思い込みの例は,ギロビッチ, T. (1993) 『人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか 』新曜社 にバスケットの例が紹介されていましたね