「批判」を通して無批判的思考を育てる

 批判的思考とは,ごく簡単にいうと,「批判を通して思考を深めること」だと思っています*1。しかし,「批判」があれば思考は深まる,というわけではありません。「批判」をうまく(悪く?)用いることで,無批判的思考を育てることもできるのです。

 金(1994)*2によると,北朝鮮の学校では毎週複数回,「批判の時間」があるのだそうです。そこではたとえば,「芸術体操」のときにうまく動けない生徒を前に立たせ,涙が出るほど批判するのだそうです。そうやって,友達でも親兄弟でも批判できる忠誠心を育むのです。

 ここで問題なのは,「批判」の基準として一つの思想体系しかないことでしょう。つまり,批判そのものが批判に対して開かれておらず,絶対視されていることが問題なのだと思います。

 同じような話は,よど号亡命者たちについて書かれたノンフィクションである高沢(200)*3にも見られます。彼らも,自己批判や相互批判を通して北朝鮮の思想を受け入れていきます。つまり,「正解」は金日成主義であり,それからはずれた考えは批判され,総括を求められるのです。それは,その人が批判の内容を受け入れるまで批判はつづけられるのだそうです。その結果、自由な疑問は圧殺されてしまいます。「批判」といいつつも,自ら考え判断していくことは禁じられた行為なのです。

 このように,「批判」という行為は,「よりよい思考」も「無批判」も,その両方のどちらをも招く可能性があることは,十分知っておくべきだろうと思います*4

*1:この場合の「批判」には,疑問,吟味,反省など,幅広いものを含みます

*2:金賢姫 (1994) 『いま、女として―金賢姫全告白〈下〉』 文春文庫

*3:高沢皓司 (2000) 『宿命─「よど号」亡命者たちの秘密工作』 新潮文庫

*4:これと同じような例は,ユン・チアン(1998) 『ワイルド・スワン』講談社文庫 にもみられます