ロジカルシンキングと論理学(3)〜MECEの論理性

前回の続きというよりも,直接的には前々回(ロジカルシンキングと論理学(1))の続きです。そこでの疑問は要するにこういうことでした。

  1. ビジネス系ロジカルシンキングは,論理学者のいう「論理的」とは違うようだ
  2. でも一方で,「MECEで考えるのって「論理的」って感じがするよなあ」と思う場面がある

2番目に関しては,「考えられる可能性を排除していって最後まで残ったものが真実ってやつ?」というブックマーク・コメントをいただきましたが,私もそうだろうなと思います。論理学的には,「選言三段論法」ですね(↓)*1

  • A または B
  • Aでない

 ゆえにB

私が出した,「液晶プロジェクタが映らない」例で言うとこうなります。

  • 「パソコンが悪い」か「ケーブルが悪い」か「プロジェクタが悪い」
  • 「パソコンが悪い」わけではない
  • 「ケーブルが悪い」わけではない

 だから,「プロジェクタが悪い」

これを,一般形にするとこうでしょうか。

1.考えられる可能性をすべて挙げる
2.ありえないものをすべて排除する

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3.残ったものが真

この論法は,1段目で,考えられる可能性がすべて列挙されていなければ成立しません。A,Bの2つで考えていたのに,第3の可能性Cを見落としていたのであれば,妥当な結論にはなりませんからね。

そしてその1段目が,いわゆる*2MECEのようです。

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こういうふうに考えたとき,いくつかのことが分かります。

★「MECE=論理的」ではない

だって,「考えられる可能性をすべて挙げること」は,あくまでも「前提」(その1)でしかないわけですから。その上で,2段目(「ありえないものをすべて排除」)を前提として初めて,「論理的な結論」が導き出せるわけですから。
ブックマークコメントに「演繹によって解決できる形に問題を落とし込む作業と、実際に演繹をおこなう作業は別なんだろうね」とありましたが,要はそういうことでしょう。
MECEを作ることは,演繹のための「前提を作る作業」であって,MECEを作ることそのものに論理性があるとか,MECEを作ることで論理性が担保されるわけではない,ということです。

★「ME-CE」のすべてが必要なわけではない

この三段論法の1段目で求められているのは,「考えられる可能性をすべて挙げる」こと,すなわち「モレなく」です。この論法が成り立つために,1段目でモレがないことは必須ですが,「ダブリ」がないことは,必須ではないはずです(ダブりがあったとしても,可能性の絞り込みは可能なはずです。出てくる結果は美しくはないでしょうが)。
ちなみに,日本のビジネス系ロジシン本の源流に近いところにある本の一冊として,『問題解決プロフェッショナル─思考と技術─』(斎藤, 1997)問題解決プロフェッショナル「思考と技術」がありますが,この本では,MECEやそうでない例をいくつか挙げたうえで,次のように書かれています。

ビジネス上はこのように,モレがあると的外れになったり,ダブリがあると非効率になるようなケースがゴマンとある。(斎藤, 1997, p.55)

モレがあると「的外れ」になるのは,選言三段論法の1段目が成立しないからで,1段目が間違っていると,論理的に健全な結論が出せなくなってしまいます。
それに対してダブリがあることの問題点が「非効率」ということは,間違っている(非論理的である)のとは違います。多少絞り込みが甘くなる,というぐらいでしょうか。この記述からも,論理的な結論を出すために必須なのは「モレなく」だけだといえるかと思います。

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と,まとめてみましたが,「本当にCE(ダブリなく)は関係ないのかな?」について,もう少し考えてみました。

ひとつ可能性があるとしたら,「でない」(not)という論理語かなあと思います。

それはこういうことです。「A」という命題があったとき,それに「でない」をつけて「Aでない」という命題を作ることができます。そして,「A,またはAでない」と両者を「または」でつなぐと,世界を「モレなくダブリなく」記述していることになります*3。まさに,全体を「論理的に分解」*4しているわけです。なぜ「論理的」といえるかというと,「でない」「または」の定義上,必然的に,モレもダブリも生まれないからですね。

これをみると,「あれ? やっぱりMECEで論理性は担保されるし,ME-CEは両方必要なんじゃないの?」と思うかもしれません。しかしビジネス系ロジカルシンキングで要求されているMECEは決して,「A,またはAでない」ではないんですね。確かにこれは「モレなくダブリなく」全体を分割していますが,これではまったく生産性が上がらないでしょう。だって,液晶プロジェクタが映らないときに,「パソコンが悪い,またはパソコンは悪くない。パソコンは悪くない。ゆえにパソコンは悪くない」となってしまいますから。

おそらくこういうことではないでしょうか。いわゆる「MECE」という言葉で目指しているのは,「でない」を使って得られる「A,またAでない」のような,全体を完璧にきれいに(論理的に)分解すること。しかし「でない」を使ってしまったら単なるトートロジーになってしまい*5,生産的なものが得られない。そこで「でない」を使わずに,「A,またはB(,またはC,または……)」という形で表現しなければいけないわけです。

そこで必須なのは,モレがないことだけなのですが,しかしもし,そこで記述されたものが全体を完璧に,きれいに分割できていれば,それは「A,またはAでない」という,論理的な表現と同等なものになる。実際に作られた「A,またはB(,またはC,または……)」という表現は,知識や経験に基づくもの(経験的命題)であって,論理学的に恒真なものでは決してないわけですが,それと同等であってほしい,という願い(?)をこめて,これを「論理的な分割」と呼ぶとともに,「A,またはAでない」が持っている「モレなくダブリなく」という条件を求めたのではないかと思います。

ということで結論としてはやはり,「ME-CEのうち必須なのは前者だけで,後者は効率性にかかわるだけで必須ではない」ということになります。もちろんダブリがないほうが美しいし,「AまたはAでない」と同等という意味での「論理性」はないわけですが,しかしダブりがあったとしても,選言三段論法の「論理性」に影響はしないはずです。そういう意味では,もう一つ分かったことをつけ足せそうです。

MECEの「論理性」には2つの意味が込められている(一つは選言三段論法の一要素として,もう一つは論理的分割に近似したものとして*6

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と,とりあえずの結論はでましたが,これはあくまでも「映らない液晶プロジェクタ」という,選言三段論法に乗せやすい例だけから考えたものです。ビジネス系の例については,改めて検討する必要はあるだろうと思っています(のでまだ続きます)。

*1:仮言三段論法(後件肯定の誤謬)で説明もできそうな気はしますが,面倒くさくなりそうなのでやめておきます

*2:なぜ「いわゆる」とつけたかというと,後半の議論があるからです

*3:「どちらでもない」というのもあるかもしれませんが,ここでは考えないことにします

*4:この表現は,「ロジカルシンキングと論理学(1)」で引用した,ロジックツリーの説明に使われていたものです

*5:論理学はまさにそれを目指してるわけですが

*6:その意味ではどちらも中途半端な論理性ですね。まあ経験的命題を扱う以上はしょうがないともいえますが