教師が飛躍するとき(3)−見守るか,指導するか

前回に引き続き、『教師が飛躍するとき』という本を読んでいます(進んでいない...)。

飯島修治先生の「自分を生徒の立場において」という論考は,興味深いものでした。飯島先生は,理学部を出て高校の教師になっているのですが,定時制で勤務しながら大学受験し,教育学部で臨床心理学の勉強もされたようです。

ここに,興味深い話が2つありました(いずれも定時制高校での出来事)。一つは,真面目で学力もある生徒が不登校になり,家庭訪問しても電話しても連絡がつかなかった。カウンセラーに相談したところ,「来るか来ないかは本人の決めること」と言われたそうです。それからどう考えたかについては,引用しましょう。

一人でよく考えて見ると,私には休んでいる生徒のことがわからなかったのです。それが私の教員としての自尊心を脅かしているのでした。何であれ,彼が学校に来てくれれば私の面目は立つのです。家庭訪問へ行ったときにも「わざわざ来たのだから顔ぐらい見せてもいいのではないか」と思っていました。ところで,彼が高校へ来ているのは教員である私の自尊心を満足させるためではありません。彼の不登校に対して私が動揺していろいろするのは私の自由ですが,彼がそれにつきあう必要は全くありません。そこまで考えが進みますと,むしろ気が楽になりました。彼が学校へ来ないのは彼の責任であって,私のせいではないのです。ならば彼がこの事態をどう対処するか見せてもらうか,と思うようになりました。(p.179)

そう考えて,別に来なくてもいいからというつもりで散歩がてらに家庭訪問に行ったりしていたところ*1,しばらくすると何事もなかったように登校してきた,というエピソードです。卒業式の後,彼は「あのときほっといてもらって助かった」と言ったそうです。

もうひとつは,文化祭でクラス劇をやることになっていたのだが,数名の出演者が当日に,飲酒して登校してきたことから,筆者の判断で急きょ参加を取りやめた,というエピソードです。判断を下したくだりを引用しておきましょう。

「ちょっと待て」と彼らが校門から入って来ようとするのをするのを制止して,その場ですぐに結論を出さなくてはなりませんでした。あいまいにしておくには問題は大きすぎました。人に相談する余裕はありません。私は三年先を考えました。修学旅行があります。今から放縦に過ぎると旅先で大きな事故になりかねません。このメンバーがこれからはこのクラスの中心になるのです。今は止めておいた方がいい,と決心しました。(p.185)

彼らは予想外に素直に従い,1年後の文化祭では,生徒は「今年は飲まなかった」などとわざわざ彼に言いに来たりしたそうです。

この2つのエピソードが興味深いのは,どちらも,生徒のことも考えつつ,学校や教師の立場を考えた結果,一方がほうっておいたのに対して,他方が強い指導力を発揮した,という点です。その差は,何らかの判断を下すことが,生徒のためなのか教師の自尊心(見栄など)なのか,といったところにあるようです(前者なら指導性を発揮し,後者なら動かず見守る)。

批判的思考のことを考えるうえでも,相手を共感的に理解し見守っていくのか,何らかの白黒的な判断を下し間違いを正していったりするのか,というのは両立が難しい問題だと思います。
教師のためのカウンセリングゼミナール
たとえば『教師のためのカウンセリングゼミナール』(菅野純, 1995 実務教育出版)によると,学校現場でも,「生徒の指導をめぐって,校内で"生徒(生活)指導派"と"教育相談派"に別れて対立してしまう」(p.178)ことがあるのだそうです。しかしこの2つのエピソードは,同一人物が反対の下し,いずれも悪くない結果になっており,この問題について,何らかの示唆を与えてくれているような気がします。

*1:会えはしなかったのでしょうが