二重過程理論の中の批判的思考(4)

 『心は遺伝子の論理で決まるのか』の4回目(最後),今日は7章と8章です。

 7章では,「分析的システムの,ロングリーシュ型の目的は,どのように発生するのか」(p.247)という問いが検討されています。念のために確認しておくと,ショートリーシュ型であるTASS(自律的システム群)は,その多くが「遺伝子が生き延びる」ことが目的になっています。遺伝子発の目的といっていいでしょうか。

 では分析的システムの目的は何か。筆者は,遺伝子発の目的と,ミーム(模倣によって受け継がれるもの。模伝子)発の目的がある,と考えているようです*1

 そして筆者は,ミーム発の目的には2つのものがあるといいます。そこのところを引用しておきましょう。

第一は,非内省的に獲得された目的で,ウィルスと同様に「感染」してしまったものである。第二は,生命体としての自分に対する影響を完全に意識したうえで,個人が内省的に獲得する目的である。非内省的に獲得される目的は,ドーキンスのいう寄生者と同じといってもいいかもしれない。現実に個人のためにはならないかもしれないが,第一章で論じた乗り物を犠牲にする遺伝子と同様な意味で,この種のミームはみずからを伝搬するためにのみ,人間を宿主として利用する。(p.260)

 第一の,非内省的に獲得されたミーム,生命体にとって何のプラスにもならないミームのことを,ただ乗りミーム,寄生ミーム,ジャンクミームなどとも呼んでいます。そのわかりやすい例としては「不幸の手紙」があります。他にも,生命に害を与えるものとしては,「喫煙はかっこいい」という信念(=ミーム)がありますし,カルト教団への参加もそうでしょう。

 そしてそのようなジャンクミームには,「私を疑うと,悪いことが起きるぞ」というような評価無効化戦略がくっついていることが多いのです。また,私たちが生きている環境そのものに,「信念を吟味することに対する敵意が蔓延して」(p278)おり,内省的な吟味がしにくい状況もあります*2。評価を受け入れないミームの例としては,信仰,陰謀説,言論の自由ミームが挙げられています*3

 つまり,分析的システムが働いているからと言って,即合理的思考が行われているとか,批判的思考が行われているとはいえないのです。まずはそのミーム反証可能性(検査可能性)を持っている必要があり,そのうえで,論理テストと経験テスト*4に合格する必要があるのです。それが上で述べている「内省的」ということなのでしょうか。

 ではいよいよ最終章である第8章です。実は8章は,これまでのなかで最も難解で,どれほど理解できたか,自信はありません。これまでもたくさん本を読む中でそういうことはありましたので,ここではそこで編み出したワザ(というほどのものでもないですが)を使って,私なりに本書の理解を深めたいと思います。

 そのワザとは,「"問い"と"答え"を見出し,その間を,隙のないようにつなぐ」というものです。こういうわかりにくい文章では,議論が錯綜していることが多いので,本筋を見つけ出し,そこだけに集中するということです。問いは,自分で立ててもいいのですが,一番いいのは,筆者自身が立てている問いを見つけることです。それが見当たらなければ,「いったいこの文章はどんな問いに答えようとしているのか」と,書かれている答え(らしきもの)から問いを逆算的に見出します。

 では本章で立てられている「問い」や「答え」は何でしょう。問いの候補らしきものは複数見当たるのですが,本章のタイトルが「謎のない魂──「ダーウィン時代」にヒトたる意義を見出す」というものであることを考えると,「ヒトがヒトたる意義は何か?」と考えていいのではないかと思います。

 また答えらしきものとして,「合理的に再構築された「意義」の概念も,自分で自分を喰っていく可能性がある。そうならないためには,一種のメタ合理性とでもいうものをつくり上げなければならない」(p.301)とあります。「意義」という問いらしき言葉も出てきていますし,悪くない感じです。ということで,このあたりがひょっとしたら答えかもしれないと考え,とりあえず,「意義」「メタ合理性」という語に注意しながら,上記の問いとの結びつきを見出していくことになります。

 以下に,見つけた記述を引用していきます。

  1. 意義を求める場として誤っているものが,もうひとつある*5。それは,自分の内側,つまり自分自身の意識的内容である。自分の心の本質について考えるとき,そこに見出したいと思うのは,私が第二章で「プロメテウス的制御者」と呼んだものである。*6
  2. 人間の合理性は,チンパンジーの合理性の単なる延長ではない。(p.307)
  3. 人間は,意思決定の選択肢にかなりの文脈的情報を取り入れる。人間は,社会的,心理的ニュアンスを持つ文脈を行動の指針とすることが多いが,動物はその種の文脈から独立した客観的消費効用に基づいて反応する可能性が高い。(pp. 308-309)
  4. 人間が価値観や社会的配慮を選択肢の効用に統合したいと明確に望むからこそ文脈が問題になる(p.310)
  5. 私たちは誰でも,自分なりの価値観を持っている──これこれこういう人間になりたいという望みを持っている。そうなるためには(薄い理論に反して)自分の欲望の内容を評価することが必要になる。欲望の内容を評価する広い理論においては,自分が持つより上位の価値観が,欲望を批判的に評価するためのメカニズムになる。(p.314)

 ここには,「人間の意義=意識ではなく,チンパンジーとは異なる合理性を持つこと。それは文脈情報を取り入れることであり,そうすることで,選択に価値観が反映される。そのために,自分の欲望を批判的に評価している」という感じの流れがあるでしょうか。別のページには,(欲望の構造を再構成するきっかけを与えてくれる)「価値観こそが人間の合理性を,チンパンジーやその他の動物に特徴的な道具的な「薄い合理性」とは異なる「広い合理性」──欲望の内容が違いを生むような合理性──にしてくれる」(p.327)という表現もあります。

 ということで新たなキーワード「価値観」「欲望の批判的評価」が浮上してきました。*7

 欲望の批判的評価については,次の記述があります。「自分自身の欲望構造に対する批判的評価(テイラーのいう「強い評価」)をもう少し形式論理学的に説明するには,哲学者ハリー・フランクファートが,しばしば引用される論文のなかで二次的欲望*8と名付けた概念──ある欲望を持ちたいと言う欲望──を導入するのがよさそうである。」(p.327)

 ということでさらに新たなキーワード「二次的欲望/二次的選好」の語が出てきました*9。一次的欲望とは,たとえば「ドラッグをやりたいと思う」というような欲望です。そこで終わり,ドラッグをやる人もいるでしょうが,そこで,「そんな欲望を持たないことを望むと言う二次的欲望」(p.328)を持つことがありえます。ここで一次的欲望と二次的欲望に矛盾が生じますが,人によっては二次的欲望のほうが弱く,結局ドラッグをやるかもしれません。ドラッグをやっているという意味では一次的欲望でドラッグをやる人もこの人も同じですが,後者は,日常語で言えば「不本意」という意味で違いますし,この本の用語でいえば,「自分自身の欲望構造に対する(批判的)評価」をしようとしている点で違います。

 そして,「この種の高次の判断と格闘することが,人間であることを他と区別する特徴」(pp.343-344)と述べられています(たとえ矛盾を統合することができなくても)。

 ではその格闘(あるいは統合)はどのように可能なのでしょうか。上位選好がつねに勝つべき,ということはありません。というのは上位選好を支える考えが,非内省的に獲得された,ジャンクミームである可能性があるからです。

 ここで思い出したのですが,ジャンクミームの見分け方は,第七章の,「どんなミームが私たちのためになるのか」という節で論じられています。それは次のようなものです。

  1. 乗り物にとって物理的に有害であるようなミームを取り入れるのは避ける
    • 危険薬物の使用,無防備なセックス,無謀運転など
  2. 信念にかかわるミームについては,真であるもの──つまり,世界の現実の様相を反映しているもの──だけを取り入れるように努める
    • 「科学」というミーム複合体は,真のミームを集めるメカニズムとしてきわめて有効であることが,すでに実証されているのを強調しておきたい。同様に,確率論のかなりの部分や論理学も,認識に好ましい影響を与えることが歴史的に証明されている。
  3. 欲望にかかわるミームについては,将来取り入れたくなるようなミーム複合体をあらかじめ排斥することのないものだけを取り入れるように努める
    • 若者が,将来達成できるかもしれない目的の幅を狭めるようなミーム複合体〔の例として〕早すぎる妊娠〔中略〕,カルト教団に参加するのも,同様の例といえる
  4. 評価に抵抗するようなミームは避ける
    • 検査可能性(反証可能性)は,個人にとって有益なミームと,風邪のようにたんに伝染してしまったウィルス・ミームを見分ける確実な手段の一つである。
    • 論理テストに合格したミームは少なくとも論理的一貫性があり,経験的テストに合格したミームは少なくともこの世界を反映しているわけで,私たちにとっては有害ではない(pp. 263-267より適宜抜粋)

 これを見ると筆者は,要は科学的,論理学的,実証的(経験的)に判断すればいいのだ,と言っているように見えるかもしれませんが,たぶんそうではありません。とうのは,3次レベルまであるような葛藤における判断について,次のように述べているのです。

判断の各レベルを順に,反復的に吟味するノイラート的試みが不可欠である。一貫性を達成してもそこで安心せず,べつのレベルの判断を分析の対象としてみる。そこで選好関係を逆転してみれば,また一貫性が崩れ,内容的均衡を取り戻すには,異なるレベルの判断を優先する必要が生じるかもしれない。(p.346)

 反復的吟味が必要ということは,何かを基準に一回で答えが出せるものではないということです。あるいは,判断の基準となる価値観が一つではなく,一人の人が多様なものを持っているから,ということもあるかもしれません。ここで述べられている「ノイラート的試み」とは,科学のプロセスでいうなら次のようなものです。「複数の仮説のあるものについて検証実験をおこなうときには,それ以外の仮説が浮動の土台であると考える。のちに,これらの一次的に浮動の土台とみなした仮説についても,不確定かつ随意的なものとしてべつの実験で検証するが,そのさいほかの仮説は浮動の土台と考える」(p.257)

 これは,哲学者ノイラートが出した比喩で,航海中の船の底板を修理するには,腐っていないであろう底板の一部に立って,腐っているであろう底板を点検し交換するしかない,というような話から来ているようです。つまり,何かを点検,評価,批判するためには,何かを(一時的に)不動のものとみなさなければいけないということであり,しかしそこで不動のものとみなされたもの自身も,点検,評価,批判の対象にすべき,ということのようです。

 これぐらいまとめてみて,何となく見えてきた感じがしたので,そろそろ終わろうかと思ったのですが,考えてみたら,冒頭で述べた「メタ合理性」について触れていませんでした(本書でも最後の方でしか明示的には触れられていない)。そこでその話を少しまとめて,終わりにすることにしましょう。

 メタ合理性については,今までの話ときっちり結び付けて,わかりやすく論じられているようには見えないので,これまたまとめるのは大変なのですが,たとえばこの話のところでは,囚人のジレンマ共有地の悲劇の話について語られており,「合理性を管理するのは合理的だ」「(狭い意味で)合理的であることは合理的か,とつねに自問しなければならない」(p.371)と述べられています。あるいは,「市場はそうした批判的評価を困難にする」(p.387)と,今の世の中が広い意味での合理性を維持することが難しいことが語られており,「これらの目的をノイラート的プロセスによって批判的に評価する必要がある」(p389), 「合理性の再帰的吟味が必要」(p.340)とありますので,要は,合理性そのものも対象に,ノイラート的に評価し続けるプロセスが大事,ということなのではないかと思います。

 とりあえず本書の概要は以上にします。余力があれば,本書を通して思ったことを書いていきたいですね。

*1:私は,「人間が生き延びるため,あるいは快適に過ごせるため」という面があるのではないかと思うのですが,筆者はそういうことは述べていないようです

*2:たとえば鹿児島には,「義を言うな」(理屈を言うな)という言葉があるそうです

*3:宗教は,吟味して選択している人もいるでしょうし,そうでない人もいるでしょうから,一概にどちらとはいえなさそうですが

*4:多分,「実証」,すなわちデータを取るというような意味でしょうね。

*5:引用者注:一つ目は,「人類の起源に答えを求めること」(p.302)

*6:引用者注:「プロメテウス的制御者」はホムンクルスの誤謬と同じ,脳内に小人を想定すること

*7:さらにこのあたりでは,「意義に基づく互いに関連する諸概念──象徴的効用,倫理的選好,表現的行為,コミットメント」(p.323)についても述べられていますが,それも考えると話が複雑になりそうなので,とりあえずはあまり重視しないことにします

*8:二次的選好とも表現されています

*9:さらには三次選好の話も出てきますが,割愛します