聴くことと考えること

 「聴く」ということが「考えること」と何か関係があるような,でもよく分からないような感じがしていました。でもそのことについて少し考えが進んだので,メモ的に書いておきます。

 といってもいきなりその話に入る前に,『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー別冊 「超」MBAの思考法』DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー別冊 「超」MBAの思考法にある,鷲田清一氏の「「受け身の作法」とは何か─「聴く力」と「待つ力」なくして,豊かな対話は生まれない」から引用しておきましょう。

 聴く力はロジカル・シンキングの前提であり,大切なのが異質なものを受け入れることであり,また最後まで相手に語らせることであるともうしました。ひるがえすと,聴く力とは「待つ力」でもあるといえましょう。
〔中略〕
 最悪なのは,話し切るのを待たず,「あなたの言いたいことは,要するに,こういうことですか」などと,相手の言いたいことを先回りして,勝手にまとめてしまうことです。
 一見理解力があることを示したようですが,実は発言の「横取り」です。(p.106)

 これって,大まかには分かるような気はするのですが,しかし最後のくだりをみると,相手の発言を要約したり自分なりの理解を示すことが悪いことのように書かれており,それって本当に悪いんだろうか,と疑問に思っていました。

 でも最近の私の日常の出来事を通して,これについて私なりに一定の理解をすることができたように思います。
 「聴く」ということは,聴く人と話す人の2者の間で成立することです。当然のことですが。そして,「話す人」の立場で考えたとき,相手に話を聴いてもらったと感じたり,聴いてもらえていないと感じるのはどういうときかというと,少なくても2つあるように思います。
 一つは,物理的に話す時間が保証されているときです。鷲田氏の言い方で言うと「待って」もらえたため,最後まで「話し切る」ことができるということですね。これはまあ当たり前といえば当たり前でしょう。
 しかしこれだけでは「聴いてもらった」という感じを得るには十分ではないようです。仮に最後まで話し切ることができたとしても,「あなたの言いたいことは,要するに,こういうことだ」と,本来言いたかったこととは少し違う形で勝手にまとめられてしまったら,決して「私が言いたかったことをきちんと聴いてもらった」という感じはしないでしょう。これ以外にも,たとえば相手と喜びを共有しようと思って興奮しながらしゃべったのに,「ふーん」で終わったしまった,なんてのも,「聴いてもらっていない」という感覚につながるかもしれません。

 いずれにしても,この2番目のものは,「語った後」(聴く側からすれば「聴いた後」)が大事ということです。
 ちなみに鷲田氏の例では,「あなたの言いたいことは,要するに,こういうことですか」と疑問形になっていますが,もしそれに対して話者が「いや違うんですこうなんですよ」と話を続けることができれば,それは対話となって,誤解も次第に解消されていくので問題ないと思うんですね。そういうリアクションなしに誤解されたまま,その誤解が対話に開かれないままに終わったときには,お互いの発言は(対話ではなく)独白にしかすぎず,「聴いてもらった」感も生まれないままに終わってしまうでしょうね。

ここから分かるのは,「聴く」ことには「真摯な理解」が伴われているということですし,他人の話を真摯に,相手の立場に立って共感的に理解するためには,高度な思考が必要だと思います。といっても思考はそこで終わるわけではありません。こちらと相手の考え方が違うのであれば,その違いは何なのか,どちらがよりよい考えなのか,あるいは両方の考えを統合(止揚)するにはどうしたらいいか,など,考えるべきことはたくさんあります。

そういう意味で,聴くことは,よりよい思考のための重要なの第一歩と言えるような気がします。