暗黙の前提(続き)

暗黙の前提の続きというかまとめです。同メーリングリストで,「相手のもっている前提の中身と,コミュニケーション状況を設定して作文を書かせる意義との関係」が話題になりましたので,私の考えを書きました。

これに関しては,私は次のように考えています。まず,昨日私が書いたことの整理ですが,一般に,理由に基づいた主張があったときに,それは(多くの場合?),理由→主張というダイレクトな結びつきではなく,

  理由 主張
  ↓   ↑

暗黙の前提

という形を取るのではないかと思います。この暗黙の前提は,昨日書いたように,「すべての〜は・・・である」というカテゴリカルな判断であったり,「A→B」という条件判断(ルール判断)ではないかと思います。そこには価値判断がけっこう含まれています。そういう判断の集まりをデータプールのように持っていて,日常の判断に役立てているわけです。

それは,ある社会的・文化的状況の中で生きていくなかで,経験的に作られていく文化的・社会的な側面を持っているものでしょう。もっともそこにはさまざまなレベルがあり,自分のごく身の回りで頻出する出来事で作られるようなパーソナルなものから,家族レベル,地域レベル,文化レベルと広いものまであるでしょう。

文化による論理観の違い(男の論理,永田町の論理,など)とは,この暗黙の前提プールの違いによるのではないかと思います。そこを明示してしまえば,領域固有の論理も,形式論理のような論理も,実は同じ論理だと私は思っています(ものの本によっては,特定文化の論理を「論理」というのは間違いだ,と書かれたものもありますが)。

また,私たちがある事柄を主張したり,主張を理解したりするときには,自分なりにその場で適していると考えている前提プールを用意してコミュニケーションに臨むのではないでしょうか。家族だったらごく短い言葉で分かるところを,近所の人なら(同じ地域にすんでいるとはいっても),それなりにきちんと言葉をつくして説明するとか,ビジネスのような公的な場であれば,もっと筋道をきちんと立てて話をするとか。もっとも,近くない,あるいは公的な場面であっても,それなりの前提プールは用意されると思います。

また,このような前提プールがあることによって,共通理解と思われる部分はいちいち言わなくてもよくなるわけですが,それは日常の言い方で言うなら「暗黙の了解」ということかと思います。

作文教育などで,コミュニケーション状況を設定すること(説得や依頼など)は,この前提のプールを,セットしなおさせるという工夫だと思います。より狭く,あるいはより公式的なものに。それは結局,話を筋道だてること=論理的に表現することにつながるのでしょう。