暗黙の前提

作文教育についてのメーリングリストで,論理の形式と内容のことが話題になりました。

「彼は日本人だ」「日本人はすべて勤勉だ」「だから彼は勤勉だ」

という,内容的には不適切だが,形式的には妥当な推論が例に挙げられていましたので,それに基づいて私の考えを書きました。

一般に作文されるときには,こういう記述はあまりしないのではないかと思うんですね。どちらかというと,2番目の文章を抜かして,

「彼は日本人だ」「だから彼は勤勉だ」

という形を取ることが多いのではないでしょうか。前者が理由(前提),後者が主張(結論)です。そして,形式論理学を念頭においたときに,ここで言えるのは,これを書いた人は,「すべての日本人は勤勉である」という前提をもっている,ということです。暗黙の前提というヤツです。

もしそれが暗黙のもので表現されていないのであれば,このように形式論理的に考えて足りない前提を補ってはじめて,「その前提は適切なのか?」と問えるわけです。こういう風に,暗黙の前提をいぶりだすという意味において,作文教育においても形式論理的な見方は捨てたものではないのではないか,と思っています。もっとも「論理」による作業はここまでで,これから先は,内容の検討になります(しかも暗黙の前提には価値観が表明されていることが多いので,案外やっかいだったりするのですが)。

 これは,「形式論理に照らし合わせて文章の妥当性を論じる」,というのとは違う方向性で形式論理を活用する,ということです。まあこれは,「形式論理」という言葉や記号を持ち出さなくても論じることが可能な事柄かもしれません。

こちらに続きます。