二重過程理論の中の批判的思考(2)

 昨日に引き続き,『心は遺伝子の論理で決まるのか』の3章と4章について書きます。

 第三章では,合理性(道具的合理性)と進化的適応を区別すべきことが述べられています。「合理性が乗り物の利益にかかわるのに対して,進化的適応は遺伝子の利益にかかわり,この両者が一致しない状況が生じうる」(p.117)からです。道具的合理性とは,目標(欲求,欲望)の良しあしはさておき,どんな目標であれ,「自分がもっとも望むとおりのものが手に入るように,この世界の中で行動すること」(p.122)です。

 第四章では,人間がどの程度,道具的合理性を達成しているかに関する,認知心理学的研究が紹介されています。そして結論から言うなら,それはあまり達成されていないようです。そのような記述を以下に抜粋します。

  1. 結果が不確定の場合,私たちが意思決定ツリーのすべての枝を点検したがらない。〔中略〕徹底的な点検をするのは,人間にとってきわめて不自然なことのようだ。出来事のツリーをくまなく点検するには,実際は偽であるかもしれないことを一時的にせよ真と仮定することが必要になる。(p.136)
  2. TASSには,肯定的事例にのみ注目し,真でないかもしれない状態を見落とす,という強力なバイアスがある。代替結果と代替仮説を表象しそこなうことから重大な推論エラーが生じる(p.139)
  3. 現実世界における信用性を無視せよとはっきり指示されたにもかかわらず,この課題の処理に予備知識が介入するのは,課題を文脈化する傾向が至るところで見られ,容易にはスイッチが切れないことを示している(p.159)

 これらはどれも,前章にあったように,「仮定的に考える」ことが苦手であるとまとめることができるのではないでしょうか。

 ただし「苦手」の度合いは人によって異なります。そこで筆者は,「認知能力の高い個人においては,分析的システムが,TASSが先行させる反応を拒否する確率が高い」(p.172)と,個人差の問題としてその差を理解しようとしています。なぜそのような個人差が生まれるかというと,分析的システムが,並列分散システム上でソフトウェア的にシミュレートされているという,進化的にも新しく,安定的でないもので実現されているからです。

 4章の内容はだいたいこんなところです。4章ではこのほかに,現代社会ではいかに,分析的システムの必要な場面が多く,その意味で人が,生物としては適応的かもしれないけれども社会の中では不合理になってしまうことがいかに多いかが語られています。しかしこの点について私見を述べるなら,進化心理学でいう「合理的」とは,十万年前の野生環境における合理性であり,その意味で「適応的」とイコールに捉えられている,ということではないかと思います。それがうまく働いていない場面があるというのはまったくそのとおりです。というか,上の言い方でいうならば,「認知能力の高い個人」が作ったシステムが,そうでない人にとって理解しづらいものになっている,ということなのかなと思います。それは個人レベルの話だけでなく,社会レベル,文化レベルでもそうかもしれません。また,「認知能力の高さ」を何で判断するかと考えたとき,それは,「分析的システムの能力の高さ」ということになっているようですが,ここも,判断基準を変えれば何を持って高いと言えるかが変わってきます。その意味では能力の高低の問題というよりも,「分析的システム優位の個人や社会が作った社会的システムが,そうでない人にとってわかりにくいものになっており,そこで不合理性が露呈される」といってもいいかなと思います。

 最後に,批判的思考(クリティカルシンキング)との関連について述べておきましょう。大まかには上に書いたような「分析的システムが,TASSが先行させる反応を拒否する」というところにあたると思いますが,もう少し正確にいうなら,「思慮深い分析によってTASSのデフォルト前提が偽であると見抜」(p.181)く必要があります。そうしないことを「マインドレス」と呼んでいますので,こうすることは「マインドフル」ということになるのでしょう。