二重過程理論から見た「思考」

 かつて,「考えることってどういうことだろう?」ということを考え,「「考えること」についての覚書」という紀要論文を書きました*1

 そのとき,参考にしたいくつかの論考の中で,私なりにこれは大事だと思ったのは次の2つでした。
日本語練習帳 (岩波新書)

  1. 胸の中の二つあるいは三つを比較して,これかあれか,こうしてああしてと選択し構成するのが「考える」(大野, 1999)*2
  2. 人間が「認知システム」を持っている最重要な目的は,「これからどうなるか」という先の「見通し」を立てるため,と考えられる。〔中略〕「知識」システムのなかから,関連した世界に関する事実やらルールやらを総動員して,もしこうだったらどうなるのか,ああしたらどうなるのかについて「シミュレーション(模擬)」をして,実際にやってためす危険をおかすことなく「推論」をするわけである。(戸田, 1987)*3

1番目は要するに,思考=拡散+収束ということで,2番目は要するに,思考=シミュレーションということです*4。ではこの2つはどういう関係と考えればいいのか(どっちが大事とか,どちらをメインに考えたらいいのかとか)。それについて私は,あまり明確な考えを持つことでできませんでした。

しかしこの点について,『心は遺伝子の論理で決まるのか』を読むことで少し整理がついたように思います。前にも引用しましたが,同書には次の記述があります。

分析的処理システムの役割のひとつに,仮定的思考を助けることがある。仮定的推論をするには,外界の現実的状況ではなく,ありうる状況を表象し,演繹的推理から意思決定,科学的推論まで,さまざまな論理的思考をする必要がある。(p.70)

ここでいう「分析的処理システム」を「思考」と読み替えれば,思考の(おそらく最も大事な)役割は,「仮定的に推論する」ことと言えるのではないでしょうか。現実にそうではないけれども,可能性として「ありうる状況」は通常一つではないので,そこでは拡散的に複数の可能性を考える必要がありますし,それをするためには,言語などの記号的表象,あるいは思考のためのツール(図など)が役立ちます。改めて言い直すなら,「思考=仮定的な状況を表現し操作するもの」というのが,思考の最も本筋といえそうです。

ただちょっと気になるのは,紀要論文を書いた2005年当時の私は,「ょっと考えてみる限りでは,あらゆる思考においてシミュレーションが行われているというわけでもなさそう」と書いています。これがどういう状況を考えて書いたのかは覚えていませんが,本当にそうなのかどうかは,これから機会ががあれば考えていきたいものです。しかし暫定的には,思考の中核を本書によって捉えられたような気がしています。

*1:こちらにあります

*2:大野晋 (1999) 日本語練習帳 岩波新書

*3:戸田正直 (1987) 心をもった機械─ソフトウェアとしての「感情」システム─ ダイヤモンド社

*4:ピアジェの言う思考=行為の内面化(=操作)というのも,要はシミュレーションということでしょう