二重過程理論から見た意識的思考
しつこく『心は遺伝子の論理で決まるのか』について書いているわけですが,本書が私にとって示唆的だった点の一つとして,意識的思考の位置づけが少しすっきりした,という点が挙げられます。
たとえば『考える脳・考えない脳』では,意識的思考のことを「古典的計算主義システム」と呼んでいますが,次のように書かれています(私なりにまとめた読書記録からの抜粋なので,原文にこれらの言葉がそのままあるかどうかの保証はありませんが)。
- 古典的計算主義システムのほうは主として環境に足場をおくサブシステム(p.172)
- 思考とは,発話や筆記のような,環境のなかに作り出される表象(外的表象)を操作することによって行われる活動(p.203)
- 発話や内語を行うことが考えること(p.201)
- 脳は身体をつうじて,外部の環境のなかにそのような思考を産み出す働きをするだけです。(p.206)
これらの言い方からするならば,意識的な思考は頭の中だけでは完結せず,環境の中に外的表象を作る(外的に表現する)ことが必要,と読めます*1。そうであれば,何らかのツールを使うことが意識的思考と言えそうですが,はたしてそうなんだろうか,そういうツールを使わないことのほうが多いんじゃないだろうか,と気になっていました。
それに対して,『心は遺伝子の論理で決まるのか』では,意識的思考は,並列分散処理がなされるニューラルネットワーク上でシミュレートされている,というような言い方をしています。もちろんそこでは言語をはじめとする表象(記号表現)はなされているでしょうが,環境の中に外的に表現されることが意識的に必須なのではない,と本書からは言えそうです。もっとも,基本的に連想変形器官であるニューラルネットワークは,そういうきちんとした表現は得意ではないでしょうから,外的に表現することが意識的思考の助けになるというか,外的表現があったほうがはるかに意識的思考を行いやすいでしょうが,それがないと意識的思考が成り立たない,というものではないと理解していいのかなあ,と本書で思いました。
本書の理解も信原氏が述べていることの理解も,私が的確に行えているかどうかは分からないのですが,それにしても本書を通して考えることで,信原氏が述べていることが少しましな形で腑に落ちた,と私には感じられましたので,ここに記録しておく次第です。
*1:上の最後の引用にもあるように,脳そのもので考えているわけではないので,「考えない脳」と表現されているのです