writer's blockからの脱却

ライターズブロックという言葉があるそうです。文章を書いていて書けなくなることです。今,論文を書いていて95%ぐらい終わったのですが,書くプロセスで,2回ほど大きなライターズブロックに見舞われました。幸いにしてそこから抜け出すことができたので,メモ書き的にその体験を書いておきましょう。

まあ,文章が書けないなんてのは日常茶飯事でしょっちゅうあるといえばしょっちゅうあるわけですが,今回のは,どちらも8割以上書き終わった時点で起きました。1つは,「終わりに」というかまとめの文章が書けないという問題でした。

ちなみに今書いているのはレビュー論文です。批判的思考(クリティカルシンキング)の教育に関して,最近の日本で書かれた論文をCiNiiで検索して150本ほど集め,そのうちの100本ほどを中心に,最近の研究・実践動向についてまとめました。先行研究の整理があらかた終わり,あとは最後に何か書くだけ,という段階になって,まったく筆が進みませんでした。

「超」文章法 (中公新書)
ちなみに論文自体は締め切りの1か月前に8割(「終わりに」以外)を書きあげ,複数の知人に目を通してもらっていました。その時点では「あと1カ月あるから何とかなるだろう」と思っていましたが,10日経っても20日経ってもちっとも「終わりに」を書ける気がしませんでした。こんな感じのことを盛り込もうか,という着想はそれなりに湧きましたが,文章化できません。基本的な戦略は,『「超」文章法』(野口 悠紀雄)にあるように,啓示が来て,天使が微笑んでいるのが見えるまで考えながら待つ,というものです。でもちっとも埒があきませんでした。

そこでふと思い出したのが「フリーライティング」(ノンストップライティング)という手法です。これは批判的思考研究者でもあるElbowが提唱している方法で,「文字や文章の誤りに注意することなく素速く書き出すことで、思いがけない言葉のつながりや直感的アイディアを生み出す思考」(Elbow, 1983)というものです。私はこれについてはあまり詳しくないので,ネットで検索してみました。そして意を決して「自由に」書いて見ました。書くのに要した時間は5分〜10分ぐらいでしょうか。それだけであっけなく書くことができました(もちろんその後に推敲はしましたが)。

今回初めてやってみたのですが,この手法は今後も使えそうなので,Web上にあった情報をいくつかクリップしておきたいと思います。

第一ステップでは、どんどんノンストップで書いていく。どのような言葉を選べば適切か正確か、はたまた文法などは一切気にせずどんどんノンストップで書いていく。ここで大事なのは「ノンストップ」という点です。途中で論旨がずれたり、書くことが思い浮かばなかったりしても決して気にしてはいけません。止まらずに書いていきます。あまりに論旨がずれた場合は、思い切って段落を改めればよいでしょうが、あくまで優先させるべきは「書き続けること」です。
書くことが思い浮かばない場合でも強引に書き進める。たとえば、構造主義について何か書こうとして何も思い浮かばないとする。その場合でも「構造主義について何か書こうとしているが何も思い浮かばない。」などと書き連ねる。そうしているうちに手と頭が温まって「たったいま書いた文から連想が働き、次の文が生み出される」というように1つの「流れ」が形成されてきます。
Deep Breathing

ともかく止まらず,論旨がずれても,思い浮かばなくても書き続ける,というのはいいですね。この方も書いていますが,ブレーンストーミングと同じで,「アイディアの生成と評価を分離する」わけですね。

  • とにかく3分から5分書き続ける
  • 何があっても途中で止まらないこと
  • 急がずに、でもさっさと書くこと
  • 決して振り返らずに、進み続けること。書いたものを見直して何かを消したり、スペルや漢字など表記の問題にとらわれないこと。どの言葉を使うべきか、今しているかについて考えないこと
  • 使うべき言葉が思い浮かばないときは、ペンでぐしゃぐしゃと書くか、「思いつかない」と書くこと
  • 思いついたこと、思っている思考をそのまま書くこと
  • 詰まったら、「何を書いたらいいかわからない。何を書いたらいいかわからない」と書いたり、最後に書いた単語を繰り返し必要なだけ書いてよい
  • 唯一しなければならないことは止まらずに書き続けること

もっと学ぼうニッポン:ブログ時代の日本語学習

3分から5分という時間が指定しているのがいいですね。それだけ「はじめる気構え」を低減できそうです(といってもこのブログの別の個所には「10分ぐらい書き続ける」とありますが)。

フリーライティングとは文字どおり、編集作業から「フリー」になって書くことを言います。生徒はリラックスして思う存分に書き散らすことができるため、書くことに対してフラストレーションを感じずに済むのです。フリーライティングの目標は、時間内に(大抵10〜20分の間に)できるだけ多くの発想を書き出すことです。エルボー(Elbow, 1979)は、この目標を達成するために一番大切なことは「絶対に書くことを止めないことである」と主張しています。間違いを疑って止まらないこと、スペルミスを見つけるために止まらないこと、文法ミスを見つけるために止まらないこと、読み返すために止まらないこと。とにかく、決して書くことを止めないことです。
優れたEFLライティング教師になるためには

「間違いを疑って止まる」というのが,今回の私の難所だったようです。やっぱり論文の仕上げ部分はきちんと書きたい。そういう思いがあったんでしょうね。それを払拭するのに,フリーライティングはとても効果的でした。

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さて,2番目のライターズブロックは「終わりに」を書き終えた後に来ました。これでもう9割方出来上がったので,要約を書こうとしたのですが,これまた書けません。ここでまた数日が過ぎてしまい,時間がかけられる週末はもう今日で最後になりました。でも要約なんて,今まで書いたことの要点を文字通り要約すればいいんでしょ,と開き直って書こうとしたのですが,やっぱり書けません(今日のことです)。

そこで,じゃあまずは本文中から各パートのまとめ的な部分を抜き出そう,と思って本文をチェックしてみてようやく気づきました。パートごとに明確なまとめがなく,そこで何を伝えようとしているかが全く見えないのです。なるほどこれじゃあ要約が書けないわけだ,と納得しました。

さっきも書いたように今回はレビュー論文なので,最近こんな研究がされている,と整理して紹介するのが目的ではあります。しかし整理だけでは論文としての面白みにかけます。整理しながら思ったことがあり,それを伝えるべく整理の観点を決め,取り上げる研究をチョイスし,配列を決めたはずです。しかし「何のためにこれらの論文を取り上げたのか,それを通して何を伝えようとしているのか」という根底にある私の考えを明示していませんでした。そこで今日は半日ほどかけて,まず本文を見直し,伝えたいことを明示することにしました。
ちなみにこの点に関しては,1か月前に草稿を送って読んでもらった人に,「先生の主張をもっと知りたいです」というコメントをいただいていたのに,「今回は「展望」なので基本的には私見を抑えて事実を淡々と書きます」などと返事をしていました。コメントしてくれた方の真意は分かりませんが,気づいて見れば問題解決の糸口になるべきものはすでにもらっていたのに活かせていなかった,という事実に先ほど気づいて,ちょっと愕然としました(でも一方で,あの時点で気付けなかったのはしょうがないだろうなという思いもあります)。

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ということで今回は,2種類のライターズブロックを体験し,それぞれ異なる方法で曲がりなりにも抜け出せたので,それを記録しておく次第です。この経験がまたいつかどこかで役立つといいんですけどね。

質的分析(補足)

昨日書いたことですが,「常識」が,何を指しているのか良く分からなかったという意見がありました。これはひょっとしたら,「暗黙の前提」という表現をした方が理解がよかったかもしれません(あるいはスキーマ?)。言い方を変えれば,「それがあることによって論理がつながるもの,しかし(言わなくても相手に伝わると考えて)明示的には表現されないもの」とも言えるでしょうか。

ちなみに私が「常識」という語を使ったのは,野矢(2001)*1の次の記述に依っています。

たんなる「常識」なんていうのはありはしない。
 ぼくの奥さんはよく「哲学者の常識は世間の非常識なのよ。知ってた?」とか言うけれど(そしてそれは哲学者の妻の常識なんだそうだ)、普遍的な「世間」なんてものがありはしないように、普遍的な「常識」などというものもない。それからまた、ただひとりのひとにとっての常識というものもない。常識というのは、ある範囲のひとたちに共通の、とりたてて言う必要もないほどあたりまえの知識のことだ。
〔1段落省略〕
 より狭く言えば、たとえば内科医の常識と外科医の常識は違う。まして医者の常識と哲学者の常識はもっと違う。認知心理学の研究によれば、論理的な推論でさえ、それぞれの領域に特徴的な推論の型をもっているんだそうだ。「世間の常識」というやつだって、文化や社会が異なればずいぶん違ったものになるだろう。
(pp. 132-137)

この話を形式的論理学の話に持ち込んで論じるならば,論理学では「A,AならばB,ゆえにB」としたときに妥当な推論となりますが,日常では,「A,ゆえにB」ということがほとんどでしょうね。このとき,「AならばB」の部分(あるいはさらにその前提となる部分)が,暗黙の前提として「言わなくても伝わるはずのこと」として扱われています。
このことについては,暗黙の前提暗黙の前提(続き)というエントリにもう少し書いています。

*1:野矢茂樹 2001 はじめて考えるときのように PHP

質的分析のワークショップ

週末,土曜日の丸1日と日曜日の午前を使って,SCATという質的分析のワークショップに参加してきました(開発者のページ)。講師は開発者である大谷先生。受けながら,いろいろなことを考えましたので,メモ風に記しておきたいと思います*1

私がこの手法に期待したのは,次の部分でした。

  • この手法は,一つだけのケースのデータやアンケートの自由記述欄などの,比較的小規模の質的データの分析にも有効である.また,明示的で定式的な手続きを有するため,初学者にも着手しやすい.
  • SCAT は,その壁の高さを数段階のスモールステップに分ける一種の「はしご」を用意して,比較的容易にその壁を超えさせるような,言語的分析活動の支援の仕組みを,その手続きに内包している.

(大谷,2011)〔機関リポジトリの該当ページ

小規模データにも有効/明示的な手続き/初学者も着手しやすい/スモールステップ,といいことずくめで,さっそく学生の研究にも,自分の研究にも使おうと思いました。

ところがワークショップに参加したところ,驚いたことに,「SCATワークショップ2回目」の人がいたり,「SCATですでに研究をしている人」がいました*2。「どうして?」と思って聞くと,「難しいから」とのことでした。「え? 『初学者にも着手しやすい』んじゃないの...?」と思いました。大げさにいうなら,目の前が真っ暗になった瞬間でした。

ワークショップは,冒頭で先生が1時間ちょっと概要を説明され,あとは4〜5人のグループに分かれて,実際に分析をしてみる,というものでした。幸いなことに私のグループには,すでに1度SCATのワークショップを受けたことのある人がいました。進めながら,皆で悩むことも多かったのですが,その人のおかげで,五里霧中に陥るということはなく,ギリギリ時間内に分析を終わらせることができました(とはいえ,初日は5時終了のところを,7時前までやったりしたのですが)。

この最中に印象的だったのは,「SCATワークショップ2回目」の人が,こういうやり方をしていいか,と先生に聞いて,「ダメ」と言われたりしていたところでした。しかもそれは事前に読んでいた(当日も参照していた)3つの論文には書かれていなかったことで,うーん,大谷先生の論文を読むだけではSCATはできないのか,と暗い気持ちになりました(「明示的で定式的な手続き」とあるのに……)。

こういった経験をしつつ,2日間終わって考えたのは,「この分析手続きには3つの層がある」というものでした。

(1)作法としての手続き

    • 「型としての」と言ってもいいかもしれません

(2)スモールステップとしての手続き

    • 難しいと言われる質的分析をやりやすくするための手続き,ということです

(3)目的達成のための手続き

    • これは,(3a)結果を得るための手続き, (3b)よりよい結果を得るための手続き,と分けても良さそうです

もちろんこれらは,かなりの部分重なることでしょうし,本来は*3目的達成のためにスモールステップで分析を行うための作法」を目指しているでしょう。しかし,100%重なっているわけではないと感じました。ある手続きが入ることで,やる人が「難しい」と感じるのであれば,上記(2)には属していないということになりますし,「この手続きって何のためにやるんだろう?」と感じる*4のであれば,少なくともその人には(3)との重なりが見えていないといえるかと思います*5

ちなみに私は冒頭,学生の研究に使おうと考えていると書きました。それはやる気満々なのですが,その際には,私なりに理解した(2)(3)を中心に進めていこうと考えています。それはひょっとしたら,開発者が想定するSCATそのものにはならないかもしれませんので*6,論文には「SCATを参考に分析した」と記述しようと思っています。それに何より,回数を重ねないことには,現時点では見えていない各種作法の意味も,見えてこないと思うのです(「意味が見える」場合も「やっぱりあまり意味がない」と思う場合もありうるでしょうね)。

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この手法は大まかには,次のステップで分析を進めます(大谷(2011)をもとにしつつ,ワークショップで理解したことも含めつつ作りました)。

  • テクストの記入
    • テキストデータをセグメント化してエクセルのセルに記入する
  • <1> データの中の着目すべき語句 の書き出し(=抜き書き)
    • 「語句」とありますが,大谷(2011)を見る限り,「文」でも構わないようです*7
  • <2> それを言いかえるためのデータ外の語句 の記入
  • <3> それを説明するための語句 の記入
    • 開発者のページの「SCAT の tips と pitfalls」に「メタファーやモデルを用いるとよい」「既存の専門的概念の構造を参考にする」とあるのは,明確には書かれていないが,おそらくここのことだろうと思います。なおメタファーや専門的概念の語は,大谷(2011)には出てきません*8
  • <4> そこから浮き上がるテーマ・構成概念 の記入
    • 目指すのは「オリジナルの概念」です。絶対に,ではありませんが

以上の4 ステップでコーディングが完了です。続いて,

  • <4>からストーリーラインを記述する
    • ストーイーラインとは,「データに記述されている出来事に潜在する意味や意義を,主に<4> に記述したテーマを紡ぎ合わせて書き表したもの」(大谷,2008)
  • そこから理論を記述する
    • 「ここでの理論とは,普遍的で一般的に通用する原理のようなものではなく,「このデータから言えること」である」(大谷, 2011)

先ほど,「スモールステップとしての手続き(難しいと言われる質的分析をやりやすくするための手続き)を中心に使いたい」と書きました*9。それに関わることで,論文に書かれていないけれどもワークショップで理解したことを,覚えている範囲で記しておきます。

  • <2>はパッパッとつける
  • ストーリーラインをイメージしながら<4>をつける
  • ストーリーラインを作るときは,<4>を並べ替えて分類したりなどする必要はない
  • 理論記述は,ストーリーラインを使って10分ぐらいで作る*10
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  • (これに加えて,一緒に来ていた大谷先生の所の院生さんは,「<3>は,少し遊んでみてもいい」と言っていました。もしそれが「気楽に」遊んでみてもいいという意味なのであれば*11,これもスモールステップの手続きとして入れられそうです)

これらが,「自分はそうしている」というだけの話なのか,「できるだけみんなもそうした方がいい」という話なのかは正確に覚えていませんが*12,これらがOKなのであれば,とても悩むべきは<2>から<3>を作る部分と<3>から<4>を作る部分なわけで,そこも,「こういう武器なしで素手で戦ったときに付けるであろうコードよりも多少なりともマシになりそうであればよしとする」と考えれば,明日からでも使える気がします。もちろん,「(3b)よりよい結果を得る」ことに終わりはないでしょうから,どこまでやればOKとか完璧,という線はないでしょうが,そこのところは,SCATを繰り返し使い,習熟していくなかで,目標を高めていけばいいと思っています(つまりここも,スモールステップで考えていこうと思っています)。

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最後に,この分析に関して気づいたことを書きます。上記の<1> → <2> → <3> → <4>はすべて,ある語句を別の語句に「書き換える」ということです。そうすることで,解釈を深め,より深層(内面)に迫り,概念を作っていくわけです。しかし書き換えるということは,発話者本人が使っていない語を持ち込むということであり,必然的に論理の飛躍が生じます。それは「真相に迫る」ことになるかもしれませんし,「無理筋の飛躍」になるかもしれません。このこと自体は,推論に必然的に伴う問題で*13,野矢(2001)*14は次のように述べています。
論理トレーニング101題

ある前提Aから,Aとは違うBを結論しなければならない。しかし,なぜ,AからAと異なるBが導けるのだろうか。ここに,論証のもつ力ときわどさがある。前提から結論へのジャンプの幅があまりにも小さいと,その論証は生産力を失う。他方,そのジャンプの幅があまりにも大きいと,論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら,小さなジャンプを積み重ねて大きな距離をかせがなくてはならない。それが,論証である。
 それゆえ,論証の技術にとってもっとも重要なことは,前提から結論へのジャンプの幅をきちんと見切ることである。野矢(2001, p.79)

私の理解では,<1> → <2> → <3> → <4>の3回のジャンプにおいて用いられるのは,「自分の常識」「特定の専門分野における概念」「対象者の,他の箇所における発話や観察データ」あたりだろうと思います。
これを適切に行うのはどうしたらいいか,と質疑の時間に質問したところ「常識を持つ」,「上下をよく見る」ということでした。前者については,この返答からすると,「常識の有無」(多寡)という一次元的な意味で捉えられてしまったようです。しかし文化によって常識は異なりますし,この場合の文化は,国レベルの話だけでなく,地域や年齢,職業,所属コミュニティなど,大小様々なものを含み,どれが正しくどれが間違いかを一元的に決めることはできないはずです。また「常識」ということの性質上,他の可能性(他の常識)があることには気づかれにくいはずです。これはあらゆる質的分析(あるいは研究以外でも,他者の言葉を解釈すること全般)に関わる大きな問題です(私は考えを整理するのに時間がかかるので,これらのことをとっさに言えませんでしたが)。
ちなみに大谷(2008)には,「異なる分析者の分析結果は全く異なり得る」とあり,そのことはワークショップ内でも何回か触れられていました。それは詰まるところ,テクスト内容の解釈や分析(言い換え)に際して分析者が持ち込む「常識」が異なるため,ということができるかと思います。

さて,「常識を持つ」,「上下をよく見る」という返答ですが,これはまとめると「本人の努力次第」ということだと思います*15。ここから分かるのは,SCATの分析手続きの中に,「ジャンプの幅をきちんと見切る」(不適切なジャンプを阻止する)ための手続きは,明示的には含まれていないということでしょう。

またそれは同時に,ある人が論文などで,「SCATを用いてこのような概念を得た」と書いたとしても,その記述(と結論として得られた概念)だけからは,その概念が適切なものか*16,判断は難しいということです。SCATの表が論文中に載っていれば,それはある程度チェック可能かもしれません*17。表がなくても,最低限,元となった発話データがないと,何も言えないでしょうね。しかし,対象発話が多ければ,論文の紙幅の関係から,そうすることはあまり現実的ではありません。しかし第三者が,得られた結論の適切さを確認/再検討する余地がなければ,反証可能性がある*18とは言えません。

ではどうしたらいいのか。それに対して,少し考えていることはあるのですが,そのことは,学生の指導をしながら,あるいは自分でやってみながら,具体化してみたいと思っています。少しだけ書くなら,たとえばKJ法でもGTAでも,全ての元データを論文に載せはしないと思いますが,それなりに納得のいく論文になる場合とそうではない場合があります。そこら辺がヒントになるかなと思っています。

ともあれ,SCATの技法と思想を学び,また,さまざまなことを考えることのできた,有意義な2日間だったと思います。

*1:なお,その時にメモした配付資料は,今手元にありません(^^ゞ 開発者の論文は適宜参考にしながら書いています

*2:しかもはるばる県外から……

*3:あるいは理想的には

*4:あるいは,開発者が想定しているのとは異なるやり方をしてしまう

*5:本当に重なっていないかどうかはさておき

*6:あえて逸脱する,という意味ではありません。想定と合致しているかどうかは,現時点では開発者自身にしか分からない,という印象を受けました

*7:私はここの作業を,テキストデータにアンダーラインを引きながら進めたが,大谷(2008)には「テクストに下線を引くなどの加工はしない」と書かれている。ただしこの記述は大谷(2011)にはない。

*8:たぶん大谷(2008)にも

*9:もちろん目的はよりよい結果を得るためですし,そのために重要と思う作法からははみ出さないようにと思っています

*10:10分で出来ることは,ストーリーラインをセグメント化し,現在形にし,「こういう可能性がある/こういう人がいる/こういう場合がある」という,ある種の存在命題にすることでしょう。そうすれば「このデータから言えること」からはみ出すことはありません。

*11:そして開発者もこの考えに同意するなら

*12:私は後者のニュアンスで取りました

*13:純粋な形式的論理以外

*14:野矢茂樹 2001 論理トレーニング101題 産業図書

*15:もちろんこのまとめ自体,言い換えである以上,「無理筋の飛躍」である可能性は必然的に存在しますね(^_-)

*16:より受け入れられやすい他の解釈可能性がないかとか,そのテキストの他の箇所と矛盾していないか,など

*17:しかし現在,刊行されている論文のなかで,SCATの表が載せられているものは少ない,という話でした

*18:すなわち科学的である

ライフスキルと批判的思考

とある論文*1を読んでいたら,ライフスキル教育に批判的思考が含められていることが書かれていました。次のくだりです。

世界保健機構(WHO)の精神保健局ライフスキルプロジェクトでは,「日常生活で生じるさまざまな問題や要求に対して,建設的かつ効果的に対処するために必要な心理社会能力」とされ(WHO,1997),次のような具体的なテーマが掲げられている.
すなわち,(1)自己認識,(2)共感性,(3)効果的コミュニケーション,(4)対人関係スキル,(5)意思決定スキル,(6)問題解決スキル,(7)創造的思考,(8)批判的思考,(9)感情対処,(10)ストレス対処である.(p.62)

この筆者は日本で出されている翻訳を元に書いているようです。
WHO・ライフスキル教育プログラム
が,WHOのページを探したら,その元になっているらしきファイル(こちらからたどれます)がありました*2

この冒頭(ライフスキルの定義)には次のように書かれています*3

 ライフスキルと言えるスキルはたくさんあり,文化や状況によってその性質や定義は異なってくるだろう。しかし,ライフスキル分野を分析したところ,子どもや大人の健康やwell-beingを促進する技能の中心となる,core set of skillsがあることが示唆された。それは次のものである。

  • 意思決定
  • 問題解決
  • 創造的思考
  • 批判的思考
  • 効果的なコミュニケーション
  • 対人関係スキル
  • 自己認識
  • 共感
  • 感情に対処すること
  • ストレスに対処すること

なるほど,この10個がすべてではないし,文化や状況によって変わってくるけど,coreになるのはこれら,ということのようです。

続きを全部訳すのは大変なので,最初の4つだけ見ておきましょう(しかも全訳はしていません)。

 意思決定*4は,我々の生活に関する決定を建設的に行うことを手助けする。もし若者が,健康と関連した行動を決定するときに,異なる意見を評価したり,異なる決定が持ちうる効果を評価することによって,健康に影響を与え得る。
 同じように問題解決は,我々の生活における問題を建設的に扱うことを可能にする。〔略〕
 創造的思考は,ありうる代替案を探索し,我々が行うことや行わないことからくる様々な結果を探索することで,意思決定にも問題解決にも貢献する。〔略〕
 批判的思考は,情報と経験を客観的なやり方で分析する能力である。価値,同調圧力,メディアのような,態度と行動に影響を与える要因を認識し評価することを手助けすることによって,批判的思考は健康に貢献しうる。

ざっと見た感じですが,代替案やありうる可能性を探索することと,情報や経験,状況を分析し評価することを明確に分け,前者を創造的思考,後者を批判的思考と呼んでいるようです。またそれらは実際には*5意思決定や問題解決において使われるというか必要になってくるわけですが,そういうマクロなレベルの思考も,それはそれで項目立てしているようで,最初の4つは関連していると言えます。つまり:

意思決定,問題解決

                                    • -

    ↑
(創造的思考+批判的思考)

こんな感じでしょうか。そして私の理解では,これらは全部ひっくるめて「批判的思考」と呼ぶこともできるのではないかと思います(というか,そういう使い方をしている研究者は少なからずいそうです)。

*1:松野ら(2010)「「ライフスキル教育」開発プロジェクトの実践と課題 : 硬式野球部の取り組みを事例として」。CiNiiからPDFへのリンクあり

*2:らしき,と書いたのは,私自身が上記の翻訳本を見ていないからです

*3:ざっと訳してみました

*4:引用者注:意思決定スキルは,という意味かな?

*5:創造的思考のところに書かれているように

二重過程理論から見た「思考」

 かつて,「考えることってどういうことだろう?」ということを考え,「「考えること」についての覚書」という紀要論文を書きました*1

 そのとき,参考にしたいくつかの論考の中で,私なりにこれは大事だと思ったのは次の2つでした。
日本語練習帳 (岩波新書)

  1. 胸の中の二つあるいは三つを比較して,これかあれか,こうしてああしてと選択し構成するのが「考える」(大野, 1999)*2
  2. 人間が「認知システム」を持っている最重要な目的は,「これからどうなるか」という先の「見通し」を立てるため,と考えられる。〔中略〕「知識」システムのなかから,関連した世界に関する事実やらルールやらを総動員して,もしこうだったらどうなるのか,ああしたらどうなるのかについて「シミュレーション(模擬)」をして,実際にやってためす危険をおかすことなく「推論」をするわけである。(戸田, 1987)*3

1番目は要するに,思考=拡散+収束ということで,2番目は要するに,思考=シミュレーションということです*4。ではこの2つはどういう関係と考えればいいのか(どっちが大事とか,どちらをメインに考えたらいいのかとか)。それについて私は,あまり明確な考えを持つことでできませんでした。

しかしこの点について,『心は遺伝子の論理で決まるのか』を読むことで少し整理がついたように思います。前にも引用しましたが,同書には次の記述があります。

分析的処理システムの役割のひとつに,仮定的思考を助けることがある。仮定的推論をするには,外界の現実的状況ではなく,ありうる状況を表象し,演繹的推理から意思決定,科学的推論まで,さまざまな論理的思考をする必要がある。(p.70)

ここでいう「分析的処理システム」を「思考」と読み替えれば,思考の(おそらく最も大事な)役割は,「仮定的に推論する」ことと言えるのではないでしょうか。現実にそうではないけれども,可能性として「ありうる状況」は通常一つではないので,そこでは拡散的に複数の可能性を考える必要がありますし,それをするためには,言語などの記号的表象,あるいは思考のためのツール(図など)が役立ちます。改めて言い直すなら,「思考=仮定的な状況を表現し操作するもの」というのが,思考の最も本筋といえそうです。

ただちょっと気になるのは,紀要論文を書いた2005年当時の私は,「ょっと考えてみる限りでは,あらゆる思考においてシミュレーションが行われているというわけでもなさそう」と書いています。これがどういう状況を考えて書いたのかは覚えていませんが,本当にそうなのかどうかは,これから機会ががあれば考えていきたいものです。しかし暫定的には,思考の中核を本書によって捉えられたような気がしています。

*1:こちらにあります

*2:大野晋 (1999) 日本語練習帳 岩波新書

*3:戸田正直 (1987) 心をもった機械─ソフトウェアとしての「感情」システム─ ダイヤモンド社

*4:ピアジェの言う思考=行為の内面化(=操作)というのも,要はシミュレーションということでしょう

二重過程理論から見た意識的思考

 しつこく『心は遺伝子の論理で決まるのか』について書いているわけですが,本書が私にとって示唆的だった点の一つとして,意識的思考の位置づけが少しすっきりした,という点が挙げられます。

たとえば『考える脳・考えない脳』では,意識的思考のことを「古典的計算主義システム」と呼んでいますが,次のように書かれています(私なりにまとめた読書記録からの抜粋なので,原文にこれらの言葉がそのままあるかどうかの保証はありませんが)。
考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

  • 古典的計算主義システムのほうは主として環境に足場をおくサブシステム(p.172)
  • 思考とは,発話や筆記のような,環境のなかに作り出される表象(外的表象)を操作することによって行われる活動(p.203)
  • 発話や内語を行うことが考えること(p.201)
  • 脳は身体をつうじて,外部の環境のなかにそのような思考を産み出す働きをするだけです。(p.206)

これらの言い方からするならば,意識的な思考は頭の中だけでは完結せず,環境の中に外的表象を作る(外的に表現する)ことが必要,と読めます*1。そうであれば,何らかのツールを使うことが意識的思考と言えそうですが,はたしてそうなんだろうか,そういうツールを使わないことのほうが多いんじゃないだろうか,と気になっていました。

それに対して,『心は遺伝子の論理で決まるのか』では,意識的思考は,並列分散処理がなされるニューラルネットワーク上でシミュレートされている,というような言い方をしています。もちろんそこでは言語をはじめとする表象(記号表現)はなされているでしょうが,環境の中に外的に表現されることが意識的に必須なのではない,と本書からは言えそうです。もっとも,基本的に連想変形器官であるニューラルネットワークは,そういうきちんとした表現は得意ではないでしょうから,外的に表現することが意識的思考の助けになるというか,外的表現があったほうがはるかに意識的思考を行いやすいでしょうが,それがないと意識的思考が成り立たない,というものではないと理解していいのかなあ,と本書で思いました。

本書の理解も信原氏が述べていることの理解も,私が的確に行えているかどうかは分からないのですが,それにしても本書を通して考えることで,信原氏が述べていることが少しましな形で腑に落ちた,と私には感じられましたので,ここに記録しておく次第です。

*1:上の最後の引用にもあるように,脳そのもので考えているわけではないので,「考えない脳」と表現されているのです

二重過程理論の中の批判的思考(5)

 『心は遺伝子の論理で決まるのか』をまとめてきました。これに基づいて,スタノヴィッチの二重過程理論に批判的思考(クリティカルシンキング)がどう位置づけられているのかについて,考えてみました。

 おさらいをすると,二重過程理論とは,並列分散処理を行うTASS(自律的システム群)と,直列的に単一のプロセスとして働く分析的システムの二重の過程を仮定する理論です。分析的システムの主な役目は,仮定的な状況を表象し,シミュレーションすることであり,TASSの不適切な反応を拒否(抑制)することといえるかと思います。

 しかし,分析的システム=批判的思考ではありません。分析的システムそのものの能力が高いということは,人間の情報処理能力の高さ(演算容量の大きさや速度の速さ)と関係している,とスタノヴィッチは考えます。知能テストや各種アチーブメントテストで測られるのはこのような能力です。

 それに対して,そのような知的能力を,ジャンクミームが生き延びるために駆動するのではなく,自分の欲望や信念が適切なものかを吟味すること,そしてそれに基づいて知的に考え判断すること,それが広い意味の合理性であり,(あまり明確な言葉では述べられていませんが)批判的思考ということのようです。

 と,ここまでの話からすると,二重過程理論のなかで,合理性や批判的思考がどのように発揮されるか,というプロセスについての説明があるわけではなさそうです。ただ,合理的に,内省的に,自分の欲望を批判的に吟味することが大事,というような感じで位置づけられているのみです。

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 もう一つだけ,本書を読んで批判的思考について考えたことを書いておきましょう。その批判的思考は何を基準として,どのように行われるか。とりあえずは,科学的,論理学的,確率論的ミームの力を借りるのがよさそうですが,それで終わるというわけではなく,反復的に吟味するノイラート的試みが不可欠,ということのようです。

 私は,最近書いた本『最強のクリティカルシンキング・マップ』で,代表的なクリティカルシンキングとして,ビジネス系クリシン,論理学系クリシン,心理学系クリシン,哲学系クリシンについて論じました。
最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけよう
これらは,「ビジネス系クリシン=ビジネス系ツール(ロジックツリーとかフレームワークとか)を土台(足場)とする批判的吟味」,「論理学系クリシン=論理学的整合性を土台とする批判的吟味」,「心理学系クリシン=心理学的知識や心理学的方法論を土台とする批判的吟味」といえるかと思います。もっというなら,論理学系クリシンは論理学ミームに基づくクリシン,心理学系クリシンは心理学ミームに基づくクリシンといえるでしょう(ビジネス系クリシンも同様ですが,バックボーンとなる学問体系なりミームなりを措定しにくいので,ここからは外しています)。どれも基本ミーム自体は不動のものとみなされ,吟味の対象としないという点で,「ノイラート的」とはいえないかと思います。それに対して哲学系クリシは,哲学的態度という基本ミームを措定はするものの,「考え続けること」をよしとするという意味で,かなりノイラート的な感じのするもので,上の3つとはやや位置づけが異なるように思います。私の本でも先の3つ(ビジネス系,論理学系,心理学系)と哲学系クリシンは別の章に位置づけたのですが,この考えはあながち間違っていなかったのだなと思いました。

 つまり,世にある各種クリティカルシンキングには,特定ミームを背景としたものと,特定ミームの点検も含み,考え続けることを旨とするものに大きく分けられるといえそうです。